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大東亜戦争ニュース・2015/1 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
拡散!!!・・・『凛として愛』・・・全編ノーカット版.wmv | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2010・8・11 ユーチューブ 「JAPAN IN COLOUR」【1/4】外国人カメラマンが見た戦前の日本 「JAPAN IN COLOUR」【2/4】外国人カメラマンが見た戦前の日本 「JAPAN IN COLOUR」【3/4】外国人カメラマンが見た戦前の日本 「JAPAN IN COLOUR」【4/4】外国人カメラマンが見た戦前の日本 |
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「コメント」 ナシ ※これが外国人カメラマンが見た戦前の日本であるが、大東亜戦争を考える前に確認して欲しい。 |
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2015・1・124 ZAKZAKby夕刊フジ (1/2ページ) 【戦後70年、今も輝く 英霊たちの足跡】パラオ共和国 国旗、南洋神社、日常語… 随所に日本統治時代の名残 |
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「記事内容抜粋」 青地に黄色の満月をあしらった「月章旗」。世界有数のダイビングスポットとして知られるパラオ共和国の国旗である。 1994年に米国の信託統治領から独立国となったとき、国民投票で選ばれたものだが、それは、日本の「日章旗(日の丸)」にちなんでデザインされたといわれる。 名越二荒之助・元高千穂商科大学教授は生前、「大東亜戦争におけるペリリュー、アンガウル両島での激戦で、日本軍将兵が勇敢に戦い玉砕していった。 そのことが、パラオの人々の胸に深く刻まれた」と、その意味するところを語っていた。 かつてスペイン領だったパラオ諸島は、19世紀末にドイツへ売却され、第1次世界大戦後から30年間、日本の委任統治が行われた。 行政機関「南洋庁」が設置され、インフラや教育制度、医療施設を整備し、生活水準の向上が推し進められた。 日本から多くの移民も押し寄せ、漁業やリン鉱石の採掘、かつお節の生産、米の栽培などに取り組んだ。 ※日本統治時代が残るパラオ、当時、日本人が行った統治の素晴らしさがパラオに残されており、大東亜戦争の正当性がパラオの歴史に残されている。 |
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2015・1・21 ZAKZAKby夕刊フジ (1/2ページ) 井上和彦 【戦後70年、今も輝く 英霊たちの足跡】人々の生活向上させる厳しい「愛」 テニアン島 |
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「記事内容抜粋」 1944(昭和19)年7月24日、米軍はサイパン島に続いてテニアン島への上陸を開始した。 迎え撃ったのは日本陸海軍総勢5万4000人。 日本軍は勇戦敢闘するも衆寡敵せず。 8月3日、ついに日本軍の組織的戦闘は終焉し、同島は米軍の手に落ちた。 そんな激戦の地は、南北16キロ、東西8キロ、人口約2500人の平坦(へいたん)な島である。 中心街、サン・ホセ(旧テニアン町)を訪ねても人影はまばらだったが、戦前は現在の約7倍もの人口を抱え、活況を呈していた。 約8キロ離れたサイパン島と同じく日本の信託委任統治領であり、南洋庁サイパン支庁テニアン出張所が設けられ、約1万8000人もの日本人が暮らしていた。 サン・ホセの中心から少し離れた場所には、戦火で大きな被害を受け、戦後再建された「住吉神社」(天仁安神社)があるほか、島の中央部には「日の出神社」もある。 日の出神社の案内版にはこう記されている。 「テニアンの日本人による開発は、南洋興発会社がサイパンからテニアンに進出した26年ごろに始まりました。テニアンは特にサトウキビの栽培に適しており、10年以内に島の8割がサトウキビ畑になるほどの大耕地となりました。砂糖耕地の拡大に伴い、テニアンは日本人と日本文化の島となりました」 中略 現地在住の日本人女性が、テニアンの年配者から聞いたというこんな話をしてくれた。 「この島のお年寄りたちは『米国は確かに援助はしてくれたが、気づけばピザとハンバーガーとペプシコーラを与えられるだけだ。島民はみんな、おかしくなってしまった。一方、日本人は厳しかったが、モノをただ与えられる今に比べて、本当に幸せな時代だった』と言っていますよ。みんな、日本時代を懐かしがっているんですよ…」 働くことや学ぶことに日本人は厳しかったが、そこには現地の人々の暮らしを向上させようとする『愛』があった。 だからこそ、日本時代を知る年配者は、日本時代への郷愁を感じているのだろう。 ※大日本帝国が進めた共に栄えようと掲げた御旗 「大東亜共栄圏」 であるが、戦後70年が経た今、近代化されたが、大日本帝国が目指した世界戦略は何処にも無い。 |
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2015・1・20 ZAKZAKby夕刊フジ (1/2ページ) 井上和彦 【戦後70年、今も輝く 英霊たちの足跡】統治時代、インフラ整備や地元の人々への教育に注力 サイパン島 |
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「記事内容抜粋」 大人気のビーチリゾート、サイパン島。 現在は米自治領・北マリアナ諸島の中心だが、戦前は日本の委任統治領だった。 第1次世界大戦後、日本の南洋庁サイパン支庁が置かれ、日本人移住者は3万人に上った。 そのため、今も日本統治時代の病院や学校、軍施設などの建造物が数多く残されている。 大東亜戦争時の米軍の攻撃で破壊され、1985年に再建された「彩帆(サイパン)香取神社」は、島の中心部のシュガーキング・パークにある。 ここには、製糖産業を興し、島の発展に貢献した実業家・松江春次氏をたたえる約4メートルの銅像が建立されており、もともと砂糖王公園と呼ばれていた。 米記念公園ビジターセンターには、地元民のコンセプション・カブレラ・ゲレロ氏の証言が紹介されている。 「日本人はここに30年いたのです。その間、人々はお互いにとても親密でした。何の問題もなく日本人は丁寧な人たちでした」 日本統治時代、日本人が地元の人々にひどい仕打ちをしたとか、搾取したという事実はない。 台湾や朝鮮で行ったように、インフラ整備のほか地元の人々への教育に注力した。 そのため日本人に対する感情は大変良い。 ※これが大日本帝国が狙った大東亜共栄圏である。 |
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2015・1・18 ユーチューブ 海外の反応】 「最も高潔な軍隊だった」ドイツ人が作った、日本兵へ贈るトリビュートに様々な声 【海外の反応】ドイツ人が作った日本兵へ贈るトリビュート動画に対する海外の反応に涙 (2015・1・19) |
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「コメント 映像はドイツ人の方が制作・投稿されたもので、第二次世界大戦中、母国のために戦った日本兵に対して、尊敬の念を表するために作られたトリビュート(尊敬・賛辞・称賛・感謝)動画です。 投稿者さんには、戦争を賛美するなどの考えは一切なく、戦地へと送られたドイツの一般の兵士たちも戦争の被害者であったとし、当時のドイツの国家社会主義を否定しています。 その上で、愛する家族や故郷を守るために命を賭して戦った自国の兵士に対し、もっと大きな敬意が払われ、名誉が与えられてもいいのでは、という想いから、主にドイツ兵にスポットを当てた動画を制作されています。 その過程で、投稿者さん曰く「兄弟ともいうべき同盟国」であった、日本軍の兵士へ贈るトリビュートもお作りになられたそうです。 映像を観た外国人からは、様々な反応が寄せられていました。 |
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2015・1・12 iza産経デジタル 編集委員 岡部伸 真珠湾奇襲、英MI5は知っていた 証拠の日記見つかる |
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「記事内容抜粋」 73年前の12月8日、日本は真珠湾を攻撃した。 当時の日本の最高機密だが、英独の二重スパイが攻撃計画を事前に察知し、英MI5(情報局保安部)が把握していたことが、英国立公文書館所蔵の秘密文書で判明した。 MI5のガイ・リッデル副長官は日記に、スパイが奇襲4カ月前に独側から偵察を指示されたリストに真珠湾と米艦隊があったことを「われわれ(MI5)は所有している」と記していた。 スパイの回顧録によると、米FBIにも奇襲を伝えたが、ジョン・フーバー長官が握り潰していたという。 このスパイは、セルビア人のドシュコ・ポポフ。 コードネームは「トライシクル」(三輪車)で映画「007」シリーズのジェームズ・ボンドのモデルの1人として知られる。 ※これで大東亜戦争はアメリカが仕掛けた罠と分かる。 当時のアメリカ大統領、ルーズベルトは戦争しないとアメリカ国民に約束し大統領になった人物、真珠湾攻撃は日本に先制攻撃さえさせれば、国民の意識を変え大日本帝国を滅ぼせると巧妙に練り上げた謀略である。 真珠湾攻撃はアメリカ軍施設だけを攻撃しており、大日本帝国の戦争に対する姿勢も理解すべきである。 野村大使が最後通牒が遅れたのも外務省の恣意的行為だったと言う説も浮上している。 そう言えば昔、アメリカ戦開戦を描いた映画があった。 モノクロ映画、野村大使の顔は覚えている。 日本政府から暗号電文を受け取り、翻訳に手間取り右往左往する野村大使の姿が描かれ、最後通牒伝達時間が遅れると言うシーンを想い出す。 最近、明らかになった事がある。 日本政府は真珠湾攻撃直前、最後通牒提出時間直前、確認の為に日本大使館に何度も電話入れるが、全員出払い電話に出る者さえいなかった事が明らかになっている。 当時、開戦前の緊急事態、日本大使館全員が出払い宴会をしていたことも明らかになっている。 私が見た映画は日本国民を騙すプロパガンダ映画だったようである。 話が変わるが、昨年の安倍総理と習近平の日中首脳会談に関する話だが、直前に発表された 「日本とシナの合意メモ」 が胡散臭い。 最近分かったのだが、シナは日本との約束を破り、日本より二時間も早く 「日本とシナの合意メモ」 のシナ版が世界に向け英文で発表されている事が分かった。 この二時間の差は外務省の恣意的遅延と憶測が飛び交っているのである。 |
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2015・1・12 産経ニュース (1/3ページ) たかはし・じゅん 【世界最年長パイロット語る(下)】 苦しかったろう、特攻「喜んで死んでいきます」…死にたくないとは書けない、検閲もあるから |
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「記事内容抜粋」 僕が乗ってたのは弾に当たりやすくて危険な大型機だったんだけど、なぜ大型機だったかというと、体が大きかったっていうのももちろんあるんだけど、予科練ってのは、すごく厳しい地上の訓練があるのね。 1年ぐらい。殴られっぱなしみたいなもん。 1人がへまをすれば全員殴られたりするから。 その訓練で、やっぱり海軍のパイロットといえども海軍なんだから船の生活も経験しないといけないということで、瀬戸内海で戦艦に乗せられたんだよ。 ところが日本の戦艦だから狭いでしょ。 当時、僕は周りの同僚に比べて顔一つ分ぐらい大きかったから、あちこち頭をぶつけて、「これは船には乗りたくない」と思ったわけ。 ゼロ戦とかの小型機だと航空母艦の生活もしないといけないからね。 陸上基地からの発進ばかりじゃないから。それで、船に乗りたくないから大型機に乗ってたということなんだ。 昭和20年は鹿児島の出水(いずみ)の基地から沖縄の攻撃に向かってたんだけど、最後の1機になって部隊として成り立たなくなってしまったんだ。 それで、北海道の美幌航空隊に向かってる途中で、青森の三沢でエンジンの調子が悪くなり、列車で北海道に向かう途中に、青森の青函連絡船の波止場で玉音放送が流れました。 本土決戦で死ぬと思ってたから「これで助かった」っていうのが本音だったね。 美幌から宮城県の松島基地まで飛んで、そこから列車で復員したら、4人兄弟の末っ子で一人っ子みたいに大事に育てられたから、母親はすごく喜んでくれたね。 ※たかはしじゅんさん、あなたの肩書を見ると敗戦利得者であろう。 己の事は何を言っても構わないが、人には皆、それぞれの思いがあるハズ、それを己の思いと一緒にして決して語ってはならない。 大東亜戦争で散った大日本帝国軍人の思いは、皆、それぞれの思いを胸に散って行ったと思う。 戦線が伸び切り物資の補給も無く、東南アジアのジャングルをさ迷い歩き飢えと病気で目的も果たせず無念の死を遂げた多くの大日本帝国軍人もいるハズ、英霊の死は特攻だけでは無い。 大日本帝国軍人が残した美談も多く存在する。 広島、長崎の原爆投下、沖縄上陸、東京大空襲を始め多くの地方都市の空爆で非戦闘員が殺戮された事実もある。 敗戦後、日本国民がどれだけ朝鮮人から辱められ貶められ惨めな思いをしたか? 知っているだろうに・・・ 大東亜戦争が残した教訓は、「決して負け戦をしてはならない」 と言う事であろう。 |
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2015・1・8 木村正人 在英国際ジャーナリスト 旧日本軍の残虐行為を描いたアンジーの『アンブロークン』と安倍首相の戦後70年談話 |
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「記事内容抜粋」 復活した「反省」の2文字 新年早々、戦後70年をめぐる天皇陛下のご感想、安倍晋三首相の年頭所感、記者会見での発言が相次ぎ、中国や韓国、米国も大きな関心を示した。 天皇陛下のご感想(1日) 「本年は終戦から70年という節目の年に当たります。多くの人々が亡くなった戦争でした。(略)この機会に、満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、今極めて大切なことだと思っています」 安倍首相の年頭所感(1日) 「日本は、先の大戦の深い反省のもとに、戦後、自由で民主的な国家として、ひたすら平和国家としての道を歩み、世界の平和と繁栄に貢献してまいりました。(略)私たちが目指す国の姿を、この機会に、世界に向けて発信し、新たな国づくりへの力強いスタートを切る。そんな一年にしたいと考えています」 安倍首相の年頭記者会見(5日) 「平和国家としての歩みはこれからも決して変わることはありません。(略)この70年間、日本は先の大戦の深い反省とともにひたすらに自由で民主的な国家を創り上げてきました。そしてアジアや世界の友人たちの平和と発展のためにできる限りの貢献を行ってまいりました。(略)その明確な意志をこの節目の年に当たり、世界に向けて発信したいと思います」 周辺の不規則発言は封印を アンジーの新作映画『アンブロークン』 「日本の人はよく見てほしい」 ※木村は、イギリスに居を構え、日本人でありながら今尚、自虐史観を持ち続け反日を煽り、日本人だけを貶める卑怯な反日日本人である。 この記事に反論する。 大東亜戦争は戦争、血迷った一部の日本兵もいただろう。 しかし、アメリカ人、イギリス人が行った植民地の人々への蛮行(残虐行為)を語らずして何故、日本人だけを貶めるのか? 私には理解出来ない。 アメリカは、広島・長崎の原爆投下、日本各地への無差別空爆、これだけで80万人もの非戦闘員(老人・婦女子)が一瞬で殺戮された。 これも一例、アメリカは多くの戦争犯罪を犯している。 イギリスは植民地インドで目に余る横暴を働いている。 だい日本帝国軍の美談多くある。 一例だが、大日本帝国海軍は、南シナ海でイギリス海軍と闘いイギリス軍艦を撃沈したが、溺れるイギリス海軍兵士全員を救助している。 木村は、これらを語らずして戦時中の一人の男をクローズアップするとは、余りにも卑怯、無知な男である。 |
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2015・1・7 産経ニュース (1/2ページ) 伊藤真呂武、今村義丈 【天皇の島から 戦後70年・序章(6)前半】 「南太平洋に慰霊に行きたい」 何度もご提案で実現 |
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「記事内容抜粋」 戦後50年となった平成7年、天皇、皇后両陛下は強い希望をかなえ、広島、長崎、沖縄、東京・下町への「慰霊の旅」を果たされた。 しばらくたったころ、陛下は、侍従長だった渡辺允(まこと)さん(78)に「『南太平洋』に慰霊に行きたい」と相談された。 南太平洋というのがミクロネシア地域、国でいえば、パラオ共和国、ミクロネシア連邦、マーシャル諸島を指されているのは明らかだった。 いずれも先の大戦時には日本の委任統治領で、米軍との攻防で甚大な戦禍に見舞われていた。 海外での慰霊は周囲には唐突に映ったかもしれないが、陛下は長年にわたってお考えを温められてきたのだろう。 実際、7年の慰霊の旅の後に出された感想の文書では、「遠い異郷」という言葉を使い、海外の犠牲者や遺族への追悼の思いをつづられている。 |
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2015・1・7 産経ニュース (1/3ページ) 【天皇の島から 戦後70年・序章(6)後半】 鎮魂の祈り、敵も味方もない 尽きない英霊への思い |
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「記事内容抜粋」 平成17年6月、米自治領サイパン島の「バンザイクリフ」。 天皇、皇后両陛下は、高さ80メートルの断崖絶壁に立ち、白波が立つ青い海原に向かって深々と頭を下げられた。 この岬では、米軍に追い込まれた日本軍や民間人が「天皇陛下万歳」と叫びながら自決したとされる。 その魂が眠る聖地へ黙礼されるお姿は、見る者の心を強く揺さぶった。 現地で見届けた遺族の一人は「ようやく戦争が終わった。天皇陛下は昭和天皇の戦争に対する思いを引き継いでこられ、大きな宿題を果たされたと思う」と感慨深そうに話している。 《あまたなる命の失せし崖の下 海深くして青く澄みたり》 ※日本は常に国の繁栄と世界平和を願う天皇陛下がおいでになられる素晴らしい国なのである。 |
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2015・1・6 産経ニュース (1/3ページ) 【天皇の島から 戦後70年・序章(5)後半】 沖縄への深い思い、琉歌に詠まれ ご共感、歴史や文化にも |
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「記事内容抜粋」 昭和天皇にとって、戦後の沖縄は未踏の地だった。 昭和62年秋の国体開会式に臨席が決まり、86歳となる同4月の誕生日会見で「戦没者の霊を慰め、永年県民が味わってきた苦労をねぎらいたい」との思いを語ったが、同9月に体調が悪化したため中止となった。 結局、名代として皇太子だった天皇陛下が皇后さまとともに訪問し、平和祈念堂(糸満市)で昭和天皇の言葉を代読されている。 「先の大戦で戦場となった沖縄が、島々の姿をも変える甚大な被害を被り、一般住民を含むあまたの尊い犠牲者を出したことに加え、戦後も長らく多大の苦労を余儀なくされてきたことを思う時、深い悲しみと痛みを覚えます」 ※沖縄の人々は天皇陛下の深い御心が理解出来なのだろうか? |
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2015・1・6 産経ニュース (1/2ページ) 伊藤真呂武 【天皇の島から 戦後70年・序章(5)前半】 陛下、沖縄への深い思い サンフランシスコ市長との晩餐会、時間を遅らせ戦没者に黙祷 |
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「記事内容抜粋」 平成6年6月。米国を訪問中の天皇、皇后両陛下は日本時間の23日正午に合わせ、滞在先のサンフランシスコのホテルで人知れず黙祷された。 この日は昭和20年に沖縄戦が終結した日で、沖縄では戦没者の追悼式典が開かれ、同時刻に黙祷がささげられていた。 実は、外務省儀典長として随行していた元侍従長の渡辺允(まこと)さん(78)が事前に天皇陛下のご指示で23日正午の現地時間を調べたところ、市長主催の晩餐(ばんさん)会が開かれる夕方と重なっていた。 それを聞いた陛下から晩餐会の時間を少し遅らせてもらえないかと依頼されたという。 中略 「多くの尊い犠牲は、一時の行為や言葉によってあがなえるものでなく、人々が長い年月をかけて、これを記憶し、一人一人、深い内省の中にあって、この地に心を寄せ続けていくことをおいて考えられません」 これを体現するように、両陛下での沖縄ご訪問は10回を数える。ご訪問には毎回別の目的もあるが、必ず初日に南部戦跡を慰問される。「それを必ず守る。そのことに意味がある」。 渡辺さんもこう強調する。 ※これこそ日本国民がおしたい申し上げる天皇陛下のお心使いであろう。 |
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2015・1・5 産経ニュース (1/3ページ) 今村義丈 【天皇の島から 戦後70年・序章(4)後半】 目にされた焼け野原「何もない。原宿の駅に」 戦没者ご慰霊への“原体験” |
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「記事内容抜粋」 天皇陛下が昭和19年7月から疎開されていた栃木・日光にも、20年に入ると空襲の警報が響き始めた。 ほどなく「疎開とは言わず、『夏季錬成だ』と言われて奥日光に行くことになった」。 陛下と学習院初等科の同学年で最後まで疎開をともにした明石元紹(もとつぐ)さん(80)は振り返る。 標高約650メートルの日光から約1500メートルの奥日光へ、いくつもの急カーブが連なる「いろは坂」も越えてたどり着いた先が、硫黄のにおいが立ち込める湯元温泉だった。 「なぜ特攻隊戦法を」 書き初めの決意 中略 「平和國家建設」 陛下はこの言葉を実践するかのようにその後、国内各地、さらには海外で、戦没者慰霊の旅を重ねられることになる。(今村義丈) |
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2015・1・5 産経ニュース (1/2ページ) 今村義丈 【天皇の島から 戦後70年・序章(4)前半】 父の詔勅聞き「変わられた」 サイパン陥落でご疎開、奥日光での終戦 |
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「記事内容抜粋」 パラオ・ペリリュー島の戦いが終わってから1年足らずで日本は敗れた。 「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び-」 昭和20年8月15日正午、ラジオから流れた昭和天皇の終戦の詔勅(しょうちょく)が日本と日本人にとって一大転機となったこの瞬間、皇太子だった11歳の天皇陛下も父の声を聞かれていた。 場所は、栃木・奥日光の山深い湯元温泉の老舗「南間(なんま)ホテル」(現在は廃業)別館2階奥の間。当時は「宮城(きゅうじょう)」と呼ばれていた皇居から約130キロ離れた、疎開先だった。 側近らは周りで立ち尽くし、むせび泣いた。 「陛下の放送で日本が負けたことをはっきり知った」(昭和49年のお誕生日会見)というご様子を、ホテル関係者は「頭を垂れ、正座したひざに置いたこぶしはぐっと握り締められていた」と側近から聞いている。 |
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2015・1・4 産経ニュース (1/2ページ) 編集委員 宮本雅史 【天皇の島から 戦後70年・序章(3)前半】 島民に投降勧めた日本兵 「道連れにできない」 |
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「記事内容抜粋」 昭和19年9月15日、米軍がパラオ・ペリリュー島に上陸を試み、多くの死傷者を出したオレンジビーチ。 真っ赤な夕日に包まれた浜辺を歩くと、70年前に米軍の艦船が大挙して島を取り囲み、倒れた日米両軍の兵士が幾重にも重なり合う光景が目に浮かぶ。 そのオレンジビーチの南側海上に平らな島が浮かんでいる。 アンガウル島だ。 ペリリューから南へ約11キロ。 南北4キロ、東西3キロ、面積8平方キロと、ペリリューの半分以下しかない小さな島だ。 かつては燐鉱石の採掘で知られたが、今も残る採掘跡は鬱蒼(うっそう)としたジャングルに呑み込まれてしまっていた。島の西側にあるアラブルックル・タオ(アンガウル港)の波止場の入り口には、日本軍が取り付け、破損した鉄製のバリケードが残されている。 採掘した燐鉱石を船まで運ぶトロッコ用のレールが海に向かって延びている。 傍のアンガウル州事務所前には 「本巣市消防団」 と書かれた消防車が1台駐車しているが、壊れていて動きそうにない。 中略 米軍は9月24日以降、投降を呼びかけたが、日本軍将兵は応じず、鍾乳洞に避難していた島民約186人は投降した。日本軍や日本人が「島民を道連れにはできない」と投降を勧めたのだという。 ※これこそ大日本帝国軍人の大和魂である。 今、靖国神社には、戦犯として一命を賭し罪を背負い償った人々と大日本帝国を守ろうと戦った多くの軍人が共に安らかに眠りについているのである。 何時の日か、天皇陛下が靖国神社に参拝されることを願っている。 |
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2015・1・3 産経ニュース (1/4ページ) 【天皇の島から 戦後70年・序章(2)後半】 日本の教育や経済発展 「我々は昔に戻るべきだ」 |
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「記事内容抜粋」 1914年、第1次世界大戦でコロール島を占領した日本は、ベルサイユ平和条約でパラオ共和国を20年に委任統治下に置き、2年後、南洋庁を設置した。 小学校や実業学校、病院、郵便局などを設置したほか、インフラ整備も進め道路や港湾、飛行場などを建設した。 法律は原則、日本の法律が適用された。 日本政府による統治は45(昭和20)年までの31年間続いた。 パラオは日本の小都市のような発展を遂げ、日本人も23年に657人だったのが38年には1万5669人を数え、パラオの総人口の7割を占めた。 44年時点では、パラオ人約6500人に対して約2万5千人の日本人(軍人をのぞく)が住んでいた。 ※死ぬまでに一度行ってみたくなった。 |
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2015・1・2 産経ニュース (15ページ) 【天皇の島から 戦後70年・序章(1)後半】 泣ける話 時を超え眠り続ける「誇り」 集団疎開させ、島民を守った日本兵 |
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「記事内容抜粋」 ペリリュー島は「忘れられた島」とも呼ばれてきた。 多大な損害を受けた米軍が口をつぐみ、日本側も生還者が少なく、証言に限りがあったからだ。 だが、島民たちは、70年前に起きたことを忘れてはいなかった。 平成21年から25年まで駐日パラオ大使だったミノル・ウエキさん(83)は言う。 「日本軍は、ペリリューの島民を全員、疎開させることで保護してくれた。 だから島民に死傷者は出なかった。 日本軍への感謝は何年たっても忘れない」 残留要望を認めず 「島が兵士のお墓」 遺骨収容し慰霊 ※これこそ日本兵、この話は何度見ても涙が出る。 この行動は、日本軍兵士の指揮の高さ、死期を前にした日本軍兵士が持つ大和魂を表している。 こんな日本軍が、シナや韓国が未だに主張を繰り返す、性奴隷、南京大虐殺などするはずが無かろう。 |
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2015・1・2 堀潤 ジャーナリスト/NPO法人8bitNews代表 戦後70年。帝国海軍将校の肉声を聴き、2015年元日に思うこと |
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「記事内容抜粋」 みなさん、新しい年が始まりましたね。 いよいよ2015年の幕開けです。 今年は一体どのような年になるのでしょうか。 去年、2014年は安倍総理が目指す「戦後レジームからの脱却」に向けてまさに一直線となった年でした。 「アベノミクス解散だ」、総理自身のそうしたかけ声のもと始まった暮れの総選挙でしたが、経済以外にも、震災復興や原発再稼働、北朝鮮拉致被害者、沖縄米軍基地、外交・安全保障問題など、争点はそれなりにあったはずでしたが、議論は深まりませんでした。 投票率は戦後最低の52.66%。《日本を変えたのは「あの日」の無関心だった》と将来振り返る日が来るかもしれません。 ■憲法改正について、みんなで真剣に議論したい ■戦争経験者の「日常」から時代のゆらぎを知り、今を考える ■日米開戦、真珠湾攻撃から玉音放送までを知る兵士の声を聞いて 大晦日に、帝国海軍の将校としてあのミッドウェー海戦を戦った98歳の谷川清澄さんのインタビューを公開しました。 真珠湾攻撃から玉音放送までの軌跡を内側から見つめてきた貴重な証言とあって、かなり反響が広がっています。 中略 インタビュー動画はおよそ2時間。 サイトにアクセスをしていただければ全て誰でも無料で観られます。 つづく |
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